『うらにわ』top2007.09.28
今日は久々にフリーハンドで絵を描きました。
といってもイラストサイトさんが載せていらっしゃるようなものではなく、単純な瓜(うり)形です。
現在、メモリアルジュエリーとして、オーダーメイドのガラス細工の依頼をしているのですが、メール文では上手く伝わらない部分を簡単でいいからイラストでFAXしてくださいといわれ、久々にフリーハンドで図形を描きました。
帰宅後、15分程度でサクッと終わるだろうとタカを括っていたら…。
あれ?あれれ?
ヘチマみたいな図形を描きたいのに、シズク型になっちゃったり、瓢箪型になっちゃたりと上手くいきません。
まさか! とマルっと円を描いてみたら、やっぱりシズク型というかタマネギ型というか、赤ペン先生の採点の○のような…orz
結局、拡大コピーとトレースと、四苦八苦で小一時間かかりました。
ノートの端に落書きしていた子供の頃は、絵心はないまでも、単純図形くらいもう少しまともに描けていた気がします。
アナログ礼賛派なことばけですが、けっこうデジタルに侵されてるな、とちょっとがっかりした。
そんな一時でした。
でも、これで結構提出資料も揃ってきたので、あとは微調整を話あって、信じてお任せという感じです。
我ながら、仕事をこなすようにドライに話を詰めておりますが、これもまた、ひとつの弔意の形です。
といってもイラストサイトさんが載せていらっしゃるようなものではなく、単純な瓜(うり)形です。
現在、メモリアルジュエリーとして、オーダーメイドのガラス細工の依頼をしているのですが、メール文では上手く伝わらない部分を簡単でいいからイラストでFAXしてくださいといわれ、久々にフリーハンドで図形を描きました。
帰宅後、15分程度でサクッと終わるだろうとタカを括っていたら…。
あれ?あれれ?
ヘチマみたいな図形を描きたいのに、シズク型になっちゃったり、瓢箪型になっちゃたりと上手くいきません。
まさか! とマルっと円を描いてみたら、やっぱりシズク型というかタマネギ型というか、赤ペン先生の採点の○のような…orz
結局、拡大コピーとトレースと、四苦八苦で小一時間かかりました。
ノートの端に落書きしていた子供の頃は、絵心はないまでも、単純図形くらいもう少しまともに描けていた気がします。
アナログ礼賛派なことばけですが、けっこうデジタルに侵されてるな、とちょっとがっかりした。
そんな一時でした。
でも、これで結構提出資料も揃ってきたので、あとは微調整を話あって、信じてお任せという感じです。
我ながら、仕事をこなすようにドライに話を詰めておりますが、これもまた、ひとつの弔意の形です。
今回、ことばけが依頼しているのはペットのメモリアルジュエリーですが、他の方の過去依頼作品集などをみると結構人間のご家族のものを作っている方々もいらっしゃいました。
フルオーダーなのでなかなか面倒なのですが、デザイナーさんと打ち合わせをしている間は、まだ亡くなった存在との繋がりが切れていない感じがして、完成すると思い入れを込めたものが手元に届くので、喪失感でちょっと凹みがちな場合にはよろしい弔い方法の一種かな。と思います。
皆さまもご一考あれ、というと不謹慎といわれそうですが、自分の遺体の処置方法の希望を伝えておくと、いざというとき、その分、安心して逝けそうです。
大事な人のときも、できるだけ本人の希望のやりかたを聞いておけば、これでよかったのかな?という後ろ髪引かれる思いなくスパッといけそうです。
そして、ある程度以上親しい人のときは、遠慮やヒト任せは厳禁です。
希望があれば遺骨の一部を譲り受けるのもいいと思います。喪主のやり方にあまり口を挟むのもアレですが、親兄弟同士の場合、遺影をもっていくもっていかない。陰膳を追加で頼む位のことは許容範囲ではないでしょうか。
まだイエと家長制度が機能しているまた話が変わるのでしょうが…。
現代では一族の墓を守るというよりも、近しい人の弔いは各自が自分の裡で処理する方が未練が残らない気がします。
今回、フェレが亡くなってから納骨までの流れは、コトバケの判断と希望と意志で進んでおります。
そのおかげもあってか、さびしさはあっても、心残りや後悔はありません。
ただ、同時期に亡くなった人間の方の弔いはそうもいっていないようで、親近者であっても当事者の括りからはちょっと外れるコトバケからみると少々のこった人間のほうが痛ましい感じに映ります。
大事な人だからこそ、弔い方にも各自拘りがあったのでしょう。
難しい問題ですが、葬儀は死者の冥福のためという建前で、遺族の気持ちの整理のためにあるのだろうと思います。
もともと仏教では40を過ぎて子供が成人したら家族を捨てて修行に出ろ、とか、葬式なんざ在家にまかせておけ、という考えがあるくらいですし、坊さま呼んで読経してもらうのは所詮が方便。わりきってやりたいようにやればいい。そう考えてしまいます。
さて、次は自分自身が白い着物をきている可能性も、黒紋付きを着ている可能性もあるのですが、白装束のときはもう好きにしていただきたいと思います。黒紋付きのときは好きにさせていただきたいと思います。
もうちょっと真面目なことを書く予定だったのですが、最近、イロイロ専門書もでているのでやめてみました。
結局、自分は今後も我侭でいきます宣言で〆となりました。
なんだかんだで、まだ現世で皆さまとの縁を結んでいたいと思います。
ご縁が解ける、その日まで、皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。
フルオーダーなのでなかなか面倒なのですが、デザイナーさんと打ち合わせをしている間は、まだ亡くなった存在との繋がりが切れていない感じがして、完成すると思い入れを込めたものが手元に届くので、喪失感でちょっと凹みがちな場合にはよろしい弔い方法の一種かな。と思います。
皆さまもご一考あれ、というと不謹慎といわれそうですが、自分の遺体の処置方法の希望を伝えておくと、いざというとき、その分、安心して逝けそうです。
大事な人のときも、できるだけ本人の希望のやりかたを聞いておけば、これでよかったのかな?という後ろ髪引かれる思いなくスパッといけそうです。
そして、ある程度以上親しい人のときは、遠慮やヒト任せは厳禁です。
希望があれば遺骨の一部を譲り受けるのもいいと思います。喪主のやり方にあまり口を挟むのもアレですが、親兄弟同士の場合、遺影をもっていくもっていかない。陰膳を追加で頼む位のことは許容範囲ではないでしょうか。
まだイエと家長制度が機能しているまた話が変わるのでしょうが…。
現代では一族の墓を守るというよりも、近しい人の弔いは各自が自分の裡で処理する方が未練が残らない気がします。
今回、フェレが亡くなってから納骨までの流れは、コトバケの判断と希望と意志で進んでおります。
そのおかげもあってか、さびしさはあっても、心残りや後悔はありません。
ただ、同時期に亡くなった人間の方の弔いはそうもいっていないようで、親近者であっても当事者の括りからはちょっと外れるコトバケからみると少々のこった人間のほうが痛ましい感じに映ります。
大事な人だからこそ、弔い方にも各自拘りがあったのでしょう。
難しい問題ですが、葬儀は死者の冥福のためという建前で、遺族の気持ちの整理のためにあるのだろうと思います。
もともと仏教では40を過ぎて子供が成人したら家族を捨てて修行に出ろ、とか、葬式なんざ在家にまかせておけ、という考えがあるくらいですし、坊さま呼んで読経してもらうのは所詮が方便。わりきってやりたいようにやればいい。そう考えてしまいます。
さて、次は自分自身が白い着物をきている可能性も、黒紋付きを着ている可能性もあるのですが、白装束のときはもう好きにしていただきたいと思います。黒紋付きのときは好きにさせていただきたいと思います。
もうちょっと真面目なことを書く予定だったのですが、最近、イロイロ専門書もでているのでやめてみました。
結局、自分は今後も我侭でいきます宣言で〆となりました。
なんだかんだで、まだ現世で皆さまとの縁を結んでいたいと思います。
ご縁が解ける、その日まで、皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。
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