『うらにわ』top2007.09.28
土曜プレミアムのアリスインワンダーランドをみていた
ファンタジーの王道だと思う
果てしない物語を思い出した
ミヒャエルエンデが果てしない物語について語っていたことを思い出した
バスチアンは帰ってこなければならなかった
最初の主人公ではかえって来れなかったから
主人公をかえたという話
ファンタジーエンのなかで起こることにはすべて意味があるという話
骨組み自体はとてもよく似ている2つの話
それぞれが独立しているのは個人の神話だからだ
モモはちょっと違う
もっと普遍的なテーマを扱っている
鏡のなかの鏡はまた違う
作者はこの区別を嫌っていたが
大人のためのファンタジーだ
なぜなら子どもがよんでも楽しくないと思う
わかりやすい成長がない
カタルシスがない
もっとフワフワ曖昧な現実と向こう側の波打ち際の話だ
だから気持ち悪いともかんじる
据わりが悪い
エンディングがない
ミヒャエルエンデがだした本でなければ売れなかっただろうなと思う
少なくとも日本では
聖書や神話が下敷きにあるから欧米では受け入れられることもあったのかも
そういえば、商業誌でもたくさんのものが聖書や神話を元ネタにしたものがある
二次創作だ
それでも誰も天使や聖人、神話的エピソードにたいしてパクりとはいわない
鉄板の二次創作だと思う
面白い話を手軽に書きたかったら
世界の神話を徹底的に読み込んでみればいいんじゃないかな
それで面白い話を量産できるようになる人もいると思う
あとは物語と向き合う姿勢だ
読者としては単純に楽しめばいいと思う
入って帰ってくる
自宅のソファでいってかえってこれる旅だ
いい旅をさせてもらったらその作家のファンになる
まあ、そこまで
触発されて自分が書き手になりたいと思うと大変だ
読者であるうちはツアー客だ
サファリパークをバスで連れて行ってもらうようなもの
猛獣がいっぱいいるサファリパークもあれば
閑散としたサファリパークもある
ただ、いずれにしても安全だ
珍獣に驚いて心筋梗塞をおこす人もそうそういないだろう
作家はサファリパークを作らなくてはいけない
これは大変だ
途中で猛獣に食べられてしまうかもしれないし
そもそも大型獣をみつけられずに兎を2、3羽放すだけになるかもしれない
配置を間違えてせっかく展示しているライオンがバスツアーのお客さんの目にとまらない、なんて失敗もあるだろう
というか、サファリパークを完成させる前に諦めてしまうことも多いだろう
だから、一作でも生み出した作家はもれなく尊敬する
ただ、敬愛できる作品となるとグッと減る
作品には二種類ある
面白くつくられた作品
作家の精神世界の冒険の結果としての作品
めちゃくちゃよく作りこまれている作品は面白いと思う
魅力的なキャラ設定
緩急のついたストーリー
緻密な伏線
世界観の細部まで作り込まれていて
読者を飽きさせないテンポがきちんと計算されている作品の場合。
作者はめちゃくちゃ研究熱心で理性的な人なんだろうなという印象。
楽しくスムーズに読ませてくれるので好きである。
感動させようとしてるな、と思いつつ感動させられる。
とても親切かつ楽なありがたい作品だ。
好きである。
もう1つが業が深いというか、なんというか。
作家の精神世界の産物である作品。
これは幅が広い。
小学生が初めてノートに書く小説から青年の私小説じみたもの。
老年期にはいって初めて筆をとった人が書く物語など、こっちが多い。
私も書いたことがあるし、大学時代のゼミ仲間でだしたゼミ誌の掲載作品ももれなくこっちだった。
何が業が深いって、死ぬほど書くのがしんどい割に読み物として面白くないことが大半なのである。
だが、面白くないから意味がないかというとそんなことはない。
こっちは書くことそのものに意義がある。
小学生は作文を書けばいいし、思春期には詩を書くべきだ。
学生もニートも小説を書いてみるべきだ。余裕があれば会社員だって書いてみればいい。
ただこっち側で小説家になろうとすると死ぬほどしんどいうえにたぶんなれないから職業として目指すのはオススメしない。
ミヒャエルエンデはこっち側の作家だった。
一冊の本を書く前と後で自分が変わっていなかったら意味がないとまで言っていた。
一冊の本を書き終わったあとでは自分が変わっているから同じような話は二度と書けないのだと。
多少言い回しは違うかもしれないが、
一週間に何文字書きますか?という質問が理解できないといっていた。
果てしない物語のときは年単位で締切をのばしたらしい。
完全に芸術家であって、職業ライターではない。
芸術家は努力して成功できるものではない。だからオススメしない。
ただ芸術活動はすることに意味がある。
結果として作られたものが第三者に何の魅力もなかったとしても。
作ったことで自分自身に変化がある。
だからたとえ作品がつまらなかったとしても、その作者を尊敬しない理由にはならない。
なんでアリスインワンダーランドからここまで話が逸れたのかは自分でもわからない。
どうもファンタジーというキーワードには触発される何かがあるようだ。
ファンタジーの王道だと思う
果てしない物語を思い出した
ミヒャエルエンデが果てしない物語について語っていたことを思い出した
バスチアンは帰ってこなければならなかった
最初の主人公ではかえって来れなかったから
主人公をかえたという話
ファンタジーエンのなかで起こることにはすべて意味があるという話
骨組み自体はとてもよく似ている2つの話
それぞれが独立しているのは個人の神話だからだ
モモはちょっと違う
もっと普遍的なテーマを扱っている
鏡のなかの鏡はまた違う
作者はこの区別を嫌っていたが
大人のためのファンタジーだ
なぜなら子どもがよんでも楽しくないと思う
わかりやすい成長がない
カタルシスがない
もっとフワフワ曖昧な現実と向こう側の波打ち際の話だ
だから気持ち悪いともかんじる
据わりが悪い
エンディングがない
ミヒャエルエンデがだした本でなければ売れなかっただろうなと思う
少なくとも日本では
聖書や神話が下敷きにあるから欧米では受け入れられることもあったのかも
そういえば、商業誌でもたくさんのものが聖書や神話を元ネタにしたものがある
二次創作だ
それでも誰も天使や聖人、神話的エピソードにたいしてパクりとはいわない
鉄板の二次創作だと思う
面白い話を手軽に書きたかったら
世界の神話を徹底的に読み込んでみればいいんじゃないかな
それで面白い話を量産できるようになる人もいると思う
あとは物語と向き合う姿勢だ
読者としては単純に楽しめばいいと思う
入って帰ってくる
自宅のソファでいってかえってこれる旅だ
いい旅をさせてもらったらその作家のファンになる
まあ、そこまで
触発されて自分が書き手になりたいと思うと大変だ
読者であるうちはツアー客だ
サファリパークをバスで連れて行ってもらうようなもの
猛獣がいっぱいいるサファリパークもあれば
閑散としたサファリパークもある
ただ、いずれにしても安全だ
珍獣に驚いて心筋梗塞をおこす人もそうそういないだろう
作家はサファリパークを作らなくてはいけない
これは大変だ
途中で猛獣に食べられてしまうかもしれないし
そもそも大型獣をみつけられずに兎を2、3羽放すだけになるかもしれない
配置を間違えてせっかく展示しているライオンがバスツアーのお客さんの目にとまらない、なんて失敗もあるだろう
というか、サファリパークを完成させる前に諦めてしまうことも多いだろう
だから、一作でも生み出した作家はもれなく尊敬する
ただ、敬愛できる作品となるとグッと減る
作品には二種類ある
面白くつくられた作品
作家の精神世界の冒険の結果としての作品
めちゃくちゃよく作りこまれている作品は面白いと思う
魅力的なキャラ設定
緩急のついたストーリー
緻密な伏線
世界観の細部まで作り込まれていて
読者を飽きさせないテンポがきちんと計算されている作品の場合。
作者はめちゃくちゃ研究熱心で理性的な人なんだろうなという印象。
楽しくスムーズに読ませてくれるので好きである。
感動させようとしてるな、と思いつつ感動させられる。
とても親切かつ楽なありがたい作品だ。
好きである。
もう1つが業が深いというか、なんというか。
作家の精神世界の産物である作品。
これは幅が広い。
小学生が初めてノートに書く小説から青年の私小説じみたもの。
老年期にはいって初めて筆をとった人が書く物語など、こっちが多い。
私も書いたことがあるし、大学時代のゼミ仲間でだしたゼミ誌の掲載作品ももれなくこっちだった。
何が業が深いって、死ぬほど書くのがしんどい割に読み物として面白くないことが大半なのである。
だが、面白くないから意味がないかというとそんなことはない。
こっちは書くことそのものに意義がある。
小学生は作文を書けばいいし、思春期には詩を書くべきだ。
学生もニートも小説を書いてみるべきだ。余裕があれば会社員だって書いてみればいい。
ただこっち側で小説家になろうとすると死ぬほどしんどいうえにたぶんなれないから職業として目指すのはオススメしない。
ミヒャエルエンデはこっち側の作家だった。
一冊の本を書く前と後で自分が変わっていなかったら意味がないとまで言っていた。
一冊の本を書き終わったあとでは自分が変わっているから同じような話は二度と書けないのだと。
多少言い回しは違うかもしれないが、
一週間に何文字書きますか?という質問が理解できないといっていた。
果てしない物語のときは年単位で締切をのばしたらしい。
完全に芸術家であって、職業ライターではない。
芸術家は努力して成功できるものではない。だからオススメしない。
ただ芸術活動はすることに意味がある。
結果として作られたものが第三者に何の魅力もなかったとしても。
作ったことで自分自身に変化がある。
だからたとえ作品がつまらなかったとしても、その作者を尊敬しない理由にはならない。
なんでアリスインワンダーランドからここまで話が逸れたのかは自分でもわからない。
どうもファンタジーというキーワードには触発される何かがあるようだ。
PR
Trackback
この記事にトラックバックする: |
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
最新トラックバック
プロフィール
ブログ内検索
最古記事
アクセス解析
アクセス解析
アクセス解析