『うらにわ』top2007.09.28
鬱という言葉が嫌いだ。
鬱蒼としている。という表現は好きだ。
陰鬱、や鬱金という言葉も好きだ。
使いどころがあまりないが。
祖母は鬱のことを、気塞ぎ、と言っていた。
そっちのほうが好きだ。
あと空気が読める人のことを、如才ない、といっていた。
如才ない大人になりたかった。
如才ない人の方が稀有な能力の持ち主で、そうじゃない大多数の人の方が普通かと思っていた。
いまだと空気が読めない人の方が少数で異質、みたいな扱いだ。
振り返ってみると自閉傾向のあった私は強情な子といわれていた。
いうことを聞かずに同じことをいつまでも繰り返していたからだろう。
最近強情という言葉も聞かなくなったがいつか言ってみたい。
ちなみに強情というと遠い旅路の終着地という話のシリルが真っ先に浮かぶ。
タイトルはあっているか怪しい。
祖母は勉強しろ、本を読めとよく言っていた。
知識だけは邪魔にならないと。
子どもの頃はとてもたくさんの本を読んだが残念ながらあまり知識にはならなかった。
おばあちゃんごめんよ。
虫を怖がらない人だった。
梅の木の下に肥料をおいてこいといわれるのがとても嫌だった。
梅の木にはびっしり虫がいた。
正直あれはトラウマだ。
孫いびりではなく、祖母はその木の下で普通に畑仕事をしていた。
母と私がすごくすごく嫌がったせいか、廃油をつかって梅の木を炙っていた。
ワイルドだった。
椎の実とドングリの見分け方を教えてもらった。
子どものころはちゃんと見分けていた筈だが、今は分からない。
とってかえると煎ってくれた。
シキシキしていて美味しかった。
間違えてドングリを食べると声がでなくなるといわれていた。
今思うとたぶんだまされた。
親が何ソレ?という服でも、ハイカラだね。といわれた。
どんな服でもハイカラといわれた。
私も若い知り合いが変わった服を着ていたらハイカラといってみよう。
兄は子供の頃ずっと丸坊主にされて地肌に椿油を塗られていたらしい。
高校生で金髪にしたときに禿げるよ、と言われていた。
以後、兄は髪を染めていない。
幸い兄は30を過ぎた今も禿げてはいない。
父親のときは椿油は高価で手には入らなかったそうだ。
25ですでに禿げていたらしい。
民間療法だ。
極端な民間療法をする人だった。
若い頃から高血圧気味で、塩分を一切断ったらしい。
畑仕事の途中で、ピタリと体が動かなくなったと言っていた。
塩分は必要である。
お酢が体にいいと聞いて飲んでいたらしい。
胃に酸で穴があいたといっていた。
果実酢とかはない時代の話である。
お酢の原液を飲むとか信じがたい。
そんな人だから私がアトピーで寝ているときに体をかきむしると手を縛ろうとした。両親がとめたらしい。
おばあちゃんの知恵袋は偉大だがときに恐ろしい。
普段は問題なく育ててもらったが、病気のときだけは母が良かった。
薬をくれるからだ。
40度近く熱があるときに足の裏に大根おろしをはられても現代っ子の回復能力では限界があった。
太陽の光がダメなときでも日向に引きずりだされるのは辛かった。
小学校にあがる頃にはバファリン置き場を覚えた。
当時はバファリンの万能性に驚愕した。
ただとげぬき地蔵の御札はやたら効いた。
よくとげが刺さる子供だった。
指のとげは針とピンセットで器用に抜いてくれた。
抜けないときはとげぬき地蔵の御札を絆創膏で貼ってくれた。
何日かすると抜けた。
魚の骨が喉にささると御札をのんだ。抜けた。不思議である。
病気や怪我、試験があるときは仏壇で拝んでくれた。
まぁ、いろいろ宗教的な面では突っ込みどころもあるのだが、のんの様を拝むということは物心ついたときから自然にうけいれていた。
いまだといくつか気になる点もあるし、祖母だけが菩提寺と違う宗教に片足突っ込んでいたので両親は嫌だったろうな、と思う部分もあるが、毎日仏壇を拝んでいた姿をみれたのは良かったと思う。
仏壇じゃなく、神棚でも十字架でもメッカの方向でもなんでもいいんだが、毎日祈りを捧げる習慣があるのはいいことだと思う。
やろうやろうと思っているのだが、土台にそもそもの信仰がないので三日坊主続きである。
反省。
何となく思い出した祖母のことを何となく書いていた。
二年前になくなったのだがもうすぐ三回忌であるミステリー。
信念の人だった。
孫も見習ってもうちょい強く生きようと思う。
ちなみに振り回されていた両親は祖母がいなくなったからといって、それ程自由を満喫している感じはない。
多少母は羽をのばしているようだが、少しテレビをみる時間が増えたとか、夕方でも友達に会えるとかその程度のようだ。
なんとなく不思議である。
鬱蒼としている。という表現は好きだ。
陰鬱、や鬱金という言葉も好きだ。
使いどころがあまりないが。
祖母は鬱のことを、気塞ぎ、と言っていた。
そっちのほうが好きだ。
あと空気が読める人のことを、如才ない、といっていた。
如才ない大人になりたかった。
如才ない人の方が稀有な能力の持ち主で、そうじゃない大多数の人の方が普通かと思っていた。
いまだと空気が読めない人の方が少数で異質、みたいな扱いだ。
振り返ってみると自閉傾向のあった私は強情な子といわれていた。
いうことを聞かずに同じことをいつまでも繰り返していたからだろう。
最近強情という言葉も聞かなくなったがいつか言ってみたい。
ちなみに強情というと遠い旅路の終着地という話のシリルが真っ先に浮かぶ。
タイトルはあっているか怪しい。
祖母は勉強しろ、本を読めとよく言っていた。
知識だけは邪魔にならないと。
子どもの頃はとてもたくさんの本を読んだが残念ながらあまり知識にはならなかった。
おばあちゃんごめんよ。
虫を怖がらない人だった。
梅の木の下に肥料をおいてこいといわれるのがとても嫌だった。
梅の木にはびっしり虫がいた。
正直あれはトラウマだ。
孫いびりではなく、祖母はその木の下で普通に畑仕事をしていた。
母と私がすごくすごく嫌がったせいか、廃油をつかって梅の木を炙っていた。
ワイルドだった。
椎の実とドングリの見分け方を教えてもらった。
子どものころはちゃんと見分けていた筈だが、今は分からない。
とってかえると煎ってくれた。
シキシキしていて美味しかった。
間違えてドングリを食べると声がでなくなるといわれていた。
今思うとたぶんだまされた。
親が何ソレ?という服でも、ハイカラだね。といわれた。
どんな服でもハイカラといわれた。
私も若い知り合いが変わった服を着ていたらハイカラといってみよう。
兄は子供の頃ずっと丸坊主にされて地肌に椿油を塗られていたらしい。
高校生で金髪にしたときに禿げるよ、と言われていた。
以後、兄は髪を染めていない。
幸い兄は30を過ぎた今も禿げてはいない。
父親のときは椿油は高価で手には入らなかったそうだ。
25ですでに禿げていたらしい。
民間療法だ。
極端な民間療法をする人だった。
若い頃から高血圧気味で、塩分を一切断ったらしい。
畑仕事の途中で、ピタリと体が動かなくなったと言っていた。
塩分は必要である。
お酢が体にいいと聞いて飲んでいたらしい。
胃に酸で穴があいたといっていた。
果実酢とかはない時代の話である。
お酢の原液を飲むとか信じがたい。
そんな人だから私がアトピーで寝ているときに体をかきむしると手を縛ろうとした。両親がとめたらしい。
おばあちゃんの知恵袋は偉大だがときに恐ろしい。
普段は問題なく育ててもらったが、病気のときだけは母が良かった。
薬をくれるからだ。
40度近く熱があるときに足の裏に大根おろしをはられても現代っ子の回復能力では限界があった。
太陽の光がダメなときでも日向に引きずりだされるのは辛かった。
小学校にあがる頃にはバファリン置き場を覚えた。
当時はバファリンの万能性に驚愕した。
ただとげぬき地蔵の御札はやたら効いた。
よくとげが刺さる子供だった。
指のとげは針とピンセットで器用に抜いてくれた。
抜けないときはとげぬき地蔵の御札を絆創膏で貼ってくれた。
何日かすると抜けた。
魚の骨が喉にささると御札をのんだ。抜けた。不思議である。
病気や怪我、試験があるときは仏壇で拝んでくれた。
まぁ、いろいろ宗教的な面では突っ込みどころもあるのだが、のんの様を拝むということは物心ついたときから自然にうけいれていた。
いまだといくつか気になる点もあるし、祖母だけが菩提寺と違う宗教に片足突っ込んでいたので両親は嫌だったろうな、と思う部分もあるが、毎日仏壇を拝んでいた姿をみれたのは良かったと思う。
仏壇じゃなく、神棚でも十字架でもメッカの方向でもなんでもいいんだが、毎日祈りを捧げる習慣があるのはいいことだと思う。
やろうやろうと思っているのだが、土台にそもそもの信仰がないので三日坊主続きである。
反省。
何となく思い出した祖母のことを何となく書いていた。
二年前になくなったのだがもうすぐ三回忌であるミステリー。
信念の人だった。
孫も見習ってもうちょい強く生きようと思う。
ちなみに振り回されていた両親は祖母がいなくなったからといって、それ程自由を満喫している感じはない。
多少母は羽をのばしているようだが、少しテレビをみる時間が増えたとか、夕方でも友達に会えるとかその程度のようだ。
なんとなく不思議である。
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